REPORT

「東京芸術中学(第4期)」第22回 小林エリカさん


作家 小林エリカさんと、第二次世界大戦時の女学生の追体験をする
編集者・菅付雅信さんと13人のクリエイターによる『東京芸術中学』。11月9日は、作家、漫画家、アーティストの小林エリカさんによる第一回目の授業。この日は、小林さんが今年5月に出版した小説『女の子たち風船爆弾をつくる』の舞台となった東京駅〜丸の内エリアのツアーを行いました。



小説の舞台を訪ね歩いて見えてくること
『女の子たち風船爆弾をつくる』は、第二次世界大戦中、東京宝塚劇場に集められ、風船爆弾づくりに動員された女の子たちの物語。膨大な資料や取材を基に、意図せず戦争に巻き込まれていく「わたしたち」の声を聞き取るように描かれています。

今回は、東京駅丸の内口で集合し、明治生命館や皇居、帝国ホテル、そして最後には東京宝塚劇場へと足を運びました。東京駅丸の内駅前広場を横切りながら、「今見ているこの風景は、100年前とほぼ同じ風景なんですよ」と小林さん。建物を背に真っ直ぐ先に見える皇居を見つめ「当時の人々はことあるごとに、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をしていたんです」と噛み締めるように語ります。著書の主人公である少女たちが13歳だったと聞き、「自分たちと同じような年齢の少女たちが、戦争の武器を作らされていたなんて」と生徒の皆さんは驚いた様子でした。

最初の目的地、明治生命館は国指定重要文化財にも認定されており、大理石があしらわれた立派な建物。戦後、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)にアメリカ極東空軍司令部として接収され、昭和21年には第一回対日理事会が開かれたことでも知られています。豪華な内装の会議室を前に「戦時中、一般市民たちが貧しい生活を送る中、軍の偉い人たちは優雅な生活をしていました。私たちが今見ているこの部屋で贅沢していたと思うと複雑な気持ちです」と小林さん。



意味のある沈黙
今度は皇居に足を運びます。皇居前の広間を眺め「当時人々は、遥拝をしたり、南京陥落など日本軍が勝った時に提灯を持って万歳をしにここに来ていました。学生たちは、学校からマラソンをしながら来て、草むしりなどをしていたんです。だから、どんなに周辺が爆撃でやられていても皇居だけはいつもとても綺麗だったそうです」と解説。「8月15日もたくさんの人が集まり、玉音放送を受け、自分たちが至らなかったと謝った。皆、戦争に勝つと疑わなかったんですよね。青春が戦争に埋め尽くされていた学生たちが、戦争に負けたと知ったときの気持ちは今の私には想像できない」と語り、生徒の皆さんに「今打ち込んでいるものが戦争に変わってしまったら・・・と考えながら、この広場を見渡してみてほしい」と投げかけます。生徒の皆さんは、言葉を失ってしまったような、神妙な面持ちで辺りを見渡していました。

すっかり日が落ち、最終地点の東京宝塚劇場を目指して、「この道をきっと少女たちも毎日歩いていたんだね」と話しながら歩き続けます。戦時中、東京宝塚劇場は工場として軍が率いることになり「女の子たちは手が柔らかくて手先が器用だから」という理由で、風船爆弾をつくることに。直径10mもある風船爆弾は秘密兵器だったので、広くて天井も高い劇場は最適な場所でした。


感じた思いを共有する
授業の最後には、菅付さんのオフィスに集い、著書について小林さんのお話しを伺いました。リサーチやインタビューを通して「自分の生活との繋がり」を発見したと小林さんは語ります。「双葉などの学校は今と変わらず受験が厳しくて、空襲中も必死に受験勉強をしていたらしいんです。制服に憧れて双葉を選んだ子たちがたくさんいましたが、入学してみると全員がダサい国民服を着させられ、すごくガッカリしたと皆さん話していました。それでも、そのダサい服に双葉のシンボルである碇のマークを刺繍してみたり。自分の思っていた戦争からは、このようなディテールが抜けていたと気付きました。24時間爆撃から逃れ、芋を食べていたわけではなく、風船爆弾を作りながら「野ばら」を合唱していたり、友達と喧嘩をしたり。それぞれの生活の延長戦に戦争があったんだなと、ハッとしたんです」。

「みんなは戦争って遠いことに感じるのかな?」と問いかける小林さんに対し、「学校で戦争の映像をたくさん見せられたりするけれど、あんまり実感は湧かなかった。けれど、今日の授業では、自分と同い年の少女たちが当時見ていた風景と同じものを見ている、ということに衝撃を受けた。怖いと初めて実感した」と生徒の1人が語りました。

執筆・写真:松村ひなた

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