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第28回前編

宇川直宏

【前編】偶然性と隣り合う配信、予定調和がない教育

#音楽 #アート #メディア #リベラルアーツ

お隣同士のGAKUとDOMMUNE/DOMMUNEが進める「バカダ大学」は「天才バカボン」に由来する?/ナンセンスギャグの文脈のなさは、消費されないし古びない/「バカ」を考えながら「天才」を考える/「天才バカボン」の「これでいいのだ」の深さについて/どちらかではなくどちらもという考え方/毎日のストリーミングにアクシデントはつきもの/「偶発的事故を味方につける」とは?

 

*後編は5月5日(水)公開予定です。
*今回はテキストでも対談の様子をお伝えします!

 

 

お隣同士のGAKUとDOMMUNE

(佐藤)「今日もガクジン始まります。よろしくお願いします。今回は特別篇ということで、GAKU事務局、そしてPARCO9階にあるお隣さん同士、DOMMUNEの宇川さんが来てくれています。どうぞよろしくお願いいたします。」
(宇川)「よろしくお願いします。GAKUが開校するタイミングやった記者会見、あれ以来ですね。10月でしたっけ?」
(武田)「いや4月か3月です。」
(宇川)「あれって2020年ですよね?あの記者会見の時はまだコロナ禍ではなかったよね。あそこで語っていたことって、フィジカルに再開発後の渋谷区の文化の新しい在り方っていうものを前提に、いかに渋谷区から学び舎としてのニューウェーブを形作っていけるかという話が出てましたよね。そのあと、3月にGAKUとDOMMUNEと渋谷未来デザインで合同のイベントやる予定でしたよね。」
(佐藤)「あ、そうですよね!」
(宇川)「あの頃僕は佐渡島でテリー・ライリーさんと一緒に視察してました(笑)。その頃にちょうど合同イベントがあるという話で、メールのやりとりを佐渡からしていたの覚えています。最初は3ヶ月後に延期って言ってましたよね。だけどそこからずるずると2度の緊急事態宣を経て、今日明けたんですよね。」
(武田)「って言っても21時ですけどね、飲食店は。」
(宇川)「僕らには一円も補助金出ない(笑)。補助金出ます?」
(佐藤)「GAKUは出ないです。」
(宇川)「DOMMUNEも出ないんです。飲食店じゃない僕らは同じ立場なんですけど、ここって渋谷区の集会場でしょ。出ないんだろうけど、率先して出さなきゃいけない場所なんじゃないのって思いますけどね。なぜなら、コロナ禍においても僕らは文化を動かしていたわけでしょ。GAKUは中高生に対して門戸を開いて学び舎としての新しい機能を打ち出していたと思うし、僕らは僕らでインターネットを通じて渋谷から文化を世界に向けて広めていっていたわけです。停滞していたコロナ禍で、日本の文化を活性化させる動きをしてきたお隣同士。保障が一円も出ないのはショックですよね。」
(武田)「恐縮ですね(笑)。」
(佐藤)「嬉しいです(笑)。」
(宇川)「ということで、ぼんやりと関係性が見えてきたところで、、、ガクジンを進めようと思います。」
(武田)「宇川さんにまとめていただきましたが、熊井さん!」
(熊井)「まさにコロナ禍でのオープンで大変なこともあった部分もありつつ、今まさに宇川さんにはGAKUにきていただいて収録していますが、僕だけ一人だけオンライン参加。だいぶハイブリッドな感じです(笑)。」
(宇川)「今どこにいます?」
(熊井)「九州の宗像市にいます。宗像大社があるところで仕事しています。」
(武田)「でもこういうのも普通になってきましたよね。一人だけ九州にいるとか。」
(宇川)「本当にそうですよね。もうリモートは当たり前。DOMMUNEを番組化しているうちに、リモートじゃダメですかって聞いて、ダメだったらダメな理由が必要になってくるくらい当たり前になってる。これもここ一年で変わったことですよね。」

「バカ田大学」について

(熊井)「フィジカルにそこにいたかった気持ちもありつつ、今日のトピックは色々なお話を聞いていきたいと思っています。まさに文化を回していかなきゃっていう点もありつつ、GAKUは子供達の学びを回していかなきゃっていう点もありつつ。DOMMUNEさんでは「バカ田大学」が始まったと!「バカ」と「大学」っていう言葉のハーモニー半端なくいいなって思っています。GAKUの「学び」っていうテーマとDOMMUNEの「学び」がシンクロしている部分があるので、その辺りをクロスさせながらコロナ禍における現場ってなんだっけみたいなお話も進めていきたいなと思います。ちなみに、バカ田大学をリスナーの方の中には知らない方もいると思うので、バカ田大学について説明いただいていいですか?」
(宇川)「バカ田大学はね、、、。赤塚不二夫さんの『天才バカボン』、若い世代の中にはご存知ない方もいるかもしれないですけど、検索してもらったらわかります。今なんとちょうどお茶の間で『天才バカボン』をテーマにしたCMが何個かあるんですよ。そのうちの一つがソフトバンク。バカボン一家がテーマ。バカボンの役を彼女がやってます。」
(武田)「芦田愛菜ちゃん!」
(宇川)「このCMめっちゃ流れてる。」
(佐藤)「出川哲朗がバカボンのパパ、、、(笑)」
(宇川)「そうこれがバカボンのパパですから。バカボンは芦田愛菜ちゃんなんですよ。ほっぺに渦巻きがあるでしょ。あれがバカボンのキャラクターを成立させるアイコンの一つ。東大名誉教授の河口洋一郎先生がいうには、生命体創造の源である美しい渦巻き状の螺旋構造を作成するアルゴリズムの”グロース”がバカボンには内在しているという話ですが、それを芦田愛菜ちゃんがほっぺ2に描いてバカボンの役をしているわけです。もう一つはばかうけっていうお菓子の30周年のCMもバカボンなんですよ。『天才バカボン』は昭和を象徴する家族の在り方だったと思うんです。それはサザエさんと同じように畳敷きの平屋一軒に住んだ、高度経済成長期における家族の肖像。サザエさん一家とおなじく、バカボン一家は日本の家族のあり方の原点だと思うんです。『天才バカボン』という漫画は、60年代のギャグ漫画の金字塔。ナンセンスギャグの概念を世界に広めた漫画なんです。みなさんご存知でしょう?」
(武田)「もちろんです。」
(佐藤)「あります。」
(宇川)「ナンセンスギャグが何かって言うと、オチに意味のないギャグ。まるっきり意味がない 不条理ギャグのことです(笑)。物語の中で対比したシチュエーションが生み出す笑いとか、文化的なトレンドの中で逸脱した笑いとか。そういった文脈にとらわれない笑い。面白いギャグ。それを打ち出したのが『天才バカボン』。だから今も残ってるんですよ、消費されずに。なぜなら古びないから。どうして古びないか?文脈がないから。」
(佐藤)「なるほど(笑)。」
(宇川)「その中に、バカボンのパパが卒業した大学が出てくるんですよ。それが「バカ田大学」。それは早稲田の隣にあるらしく。校歌が「都の西北 ワセダのとなり♩」って(笑)。早稲田大学の校歌をパロディにした歌なんです。それがバカボンに出てきます。バカ田大学の物語は、『少年マガジン』で当時連載されていた。その頃からエピソードが積み重ねられて、バカ田大学の輪郭が見えてくる。偏差値は102で、東大を上回る超難関校だったのでした。「純ナンセンス」であり、入るのも出るのも難しい大学。よく考えたら、「バカを極めること」って本当に難しい。ほとんどの人はバカを極められずに、成長とともにバカであり続けることを断念していくわけでしょ。成長過程において、社会とのしがらみだったり様々な人間関係だったり人生における挫折体験だったりそう言ったものを経て脱皮しながら成長していく過程でみんなバカを脱ぎ捨てていく。「バカを貫くこと」ってやっぱり難しい。じゃあ一体バカってなんなんだと考えていく学問を打ち出していくのがバカ田大学なんですよ。バカ田大学は養老孟司さんも教授なんですよ。東大名誉教授ですよ(笑)。養老先生は『バカの壁』って言う書籍を出されてますよね。バカボンって「天才」バカボンじゃないですか。つまり「バカ」であり「天才」なのです。その天才とバカの双璧の内側にいるのが我々です。そこからいかに逸脱していくのかを学ぶ学問。今は言葉を選ばなくちゃいけない時代になりましたね。単なるバカでは語れないエクストリームにはあらゆる症例がありますが、そう言ったものも含めて、一つの学問のレイヤーだったり歴史的な時間軸から完全に距離をおいたところで野生のように存在意義を主張している人たちの取り組みについても、いかに学問として捉えられるのか?。そのことを踏まえ「バカ」を考えるための学問なんです。つまり、「バカ」を考えながら「天才」を考える。「天才」を考えながら「文化」を考える。「文化」を考えながら「歴史」を考えながら拡張していく学問。そんな学問を「バカ田大学」では学べるということにしておきます(笑)。」
(武田)「番組のコンテンツとしてはわかるんですが、「天才は育てられない」「バカは育てられない」って一般の教育の中にはあると思います。そう言う意味で言うと、健常者はどんなことをを感じたらいいんだろうって思います。」
(宇川)「今「天才もバカも育てられない」って仰ったのは、先天的な何かが作用している、努力によって乗り越えられる領域ではないって言う仮説ですよね。そのことを考えることってすごく大事ですね。なぜかと言うと、天才とバカをイメージできているってことじゃないですか。つまり、乗り越えられなくとも、そのイメージできた天才やバカに自ら近づくことができる。もしくは、それらと距離を取りながら、天才にはなれなくとも、天才性に近づくことはできるし、バカ性を醸し出すことはできる。だから、養老孟司さんの「天才とバカの壁」という授業を受けるとは天才性とバカ性のフォーカスがあってくる。そのほかでも、あまちゃんの大友良英さんが「ノイズとバカ」について議論してくださいました。「ノイズ」って本来排除するべきものじゃないですか。つまりバカと近い。なのでバカ性は義務教育から排除されてる。ノイズリダクションのようにバカになる要素は全てイコライジングされ義務教育から取り払われている。例えば、ゲームしながら、漫画を読みながら、デスメタルを聴きながら授業を受けることはこれまで許されてこなかった(笑)。今はリモートで随分自由になりましたが。もしくはカールやアポロチョコを食べながら授業受けてたら昭和の学び舎ならチョークが飛んできますよね(笑)。当然ですが、授業の邪魔になるものを排斥する、つまりバカ性を排除している。ノイズであると。逆説的に考えるとその排除されるべきノイズがいかに豊かで音楽性に満ち溢れそして楽しむことができるのか?そのことを圧倒的な音圧で知らしめているのがノイズミュージックという概念ですよね。本来ノイズは排除されるべきものなんです。例えばノイズキャンセラーってあるでしょ(笑)。あれってバカキャンセラーのことなのですよ(笑)。バカを丸ごと排除してる。そんな逸脱した存在を有効に摂取していき、自らも豊かなノイズ=バカとして存在できるか、ノイズ=バカを極めることができるか?そんなこともこの大学では学ぶことができます。僕はこの学問は無敵だと思っています。DOMMUNEのバカ田大学の教授は、例えば、東大、京大、早稲田、東京藝大とか、そう言った究極のアカデミズムと、漫画家からテクノDJ、落語からノイズミュージシャンまでオルタナティブの極みが融合した極端に幅広い立場のプロフェッサーギルからの教えを浴びられる(笑)。これがポストパンデミック以降の新しい大学の在り方というか、大学のニューノーマル、もといノーノーマルを改めて考えていこうと思っています(笑)。GAKUもそうだと思っています。苦しくも授業形態が変わったかもしれないですけど、同じく学問のノーノーマルを考えるプロジェクトとしては同志だと思うのです。逆にコロナ禍以降のGAKUの取り組みについて聞いてみたいです。」

「天才バカボン」の「これでいいのだ」の深さについて

(熊井)「コロナ禍以降のお話もしたいとともに、宇川さんのお話を伺っていて、宇川さんのバカ田大学についてのステイトメントに「これでいいのだ」ってあったじゃないですか。まさに赤塚先生の言葉ですが。「これでいいのだ」っていう言葉の深さっていうところかなと思います。それがGAKUと通じるところでして。「バカか天才か」っていう話から、むしろ宇川さんは「これでいいのだ」性にジャンプアップさせてる部分があるじゃないですか。「これでいいのだ」性を言い換えるならば子供達に対して「行けー!」みたいな感覚があるんです。GAKUの「これでいいのだ」性を語る前に、宇川さんに「これでいいのだ」のボキャブラリーについてもう少しお伺いしたいです。」
(宇川)「「これでいいのだ」を考えるには、それ以前に「はんたいのさんせいなのだ」を考えねばなりません。「はんたいのさんせいなのだ」の何がすごいのかって、賛成でも反対でもあるんでしょ。”どちらか”じゃなくて”どちらも”であると。だからつまり全般的に賛成であると。そのあとに「これでいいのだ」とヲチがつく。正解も不正解もなく、失敗も成功もないんですね。どちらにも価値と可能性があるってことを、前提として認めているんです。だからその後に「これでいいのだ」としめる。熊井さんが放送前に仰っていたDOMMUNEの理念が「偶発的事故を味方につける」っていうものなんですが、それも言い換えれば「これでいいのだ」なんですよ。どういうことかと言うと、(僕たちは)生でライブストリーミングを毎日やっているわけでしょ。事故はつきものなんです。登壇予定であった海外のDJが飛行機に乗り遅れるとか結構普通にある。例えばGoogleがサイバーテロにあって一切配信できないとか、ありましたよ。それを言うなら3.11の東日本大震災があったあの日もDOMMUNEは配信する予定だったわけで。全ての電車が止まって演者は来れないし、後半に出演予定だったラリー・ハードっていうシカゴハウスの創始者も羽田に着陸できなくてアンカレッジに非難したり。結局振替フライトが出て、(彼は)3月13日に東京に来ちゃった。その時は節電を求められていたから、エンターテイメントはまだ早いって時にDOMMUNEは音楽配信をしていた。それに感動するひとが続出。その後、義援金を集めるプロジェクトに発展したりとか。これって全部ディレクションのもとに成り立ってたアクションではないでしょ。もともと予定調和として描いていた脳内の番組構成から逸れていく。逸れていった先に起こっている事故をいかに反転させるか、アート/エンターテイメントに昇華させていくかっていうことがDOMMUNEのテーマです。だから「偶発的事故を味方につける」。「これでいいのだ」。飛行機に乗り遅れた。「これでいいのだ」。震災が起きたことに「これでいいのだ」とは間違っても言えないですけど、その現実をストリーミングで支援し、義援金を集めて、被災孤児に全額寄付したことは「これでいいのだ」と心の中でいいたい。そしてDOMMUNEは水没してますからね。恵比寿時代、隣のマンションとの間に過激な降水量からプールができてしまい、ダクトから水が溢れてきて水没しました(笑)。でもこのことについては「これでいいのだ」と言えてしまうメンタリティーを保ちたい。そういった偶発的事故をいかにエンターテインさせていけるかがライヴの現場では重要だと思うんです。それが座右の銘になっている。『天才バカボン』のスローガンの一つである「これでいいのだ」は、何か想像していた、もしくは、見極めようとしていたビジョンからかけ離れていたものすらも絶対的に受け入れる。そういった懐の深いコンセプトがあるなと思うんです。そのことが生きていく上で重要。環境適応能力ってめちゃくちゃ大事だとおもうんです。環境が変わってもそれに適応しながら、最大限のクリエイティヴィティを発揮するような態勢でい続けることがものすごく大事。このことは若ければ若いほど学んでほしいコンセプト。「はんたいのさんせいなのだ」「これでいいのだ」は、どの世代にとっても、どんなシチュエーションにとっても有効だと思うんです。だからバカ田大学はバカボンのパパが卒業した大学とされていますけど、「天才」と「バカ」両極のエクストリームな才能を認める。それを前提に肯定していくこと。つまり「これでいいのだ」って全肯定して受け入れる姿勢のことですよね。」
(武田)「GAKUの授業の中に、遠山くんたちの「Beat, Flow and Promotion」っていう授業があって、そこは6人しか生徒がいない。だけどラッパーとかトラックメイカーが3人ずつ来て、生徒2人に対して一人ずつ講師をしている。最終的にはMVまで作って配信するっていう授業だったんですけど、その先生たちが言っていたのは「その子(受講生)がそのまま作品になっていることが何よりも本当に良かった」と。打算は一切なく、「これでいいんだ」っていう風に育っていけることがすごく良くて、それが音楽教育の原点になくてはいけないなって彼らは言っていました。いまの話しをお聞きしていると、、、」
(宇川)「うん、かなり近い。」
(武田)「そうですよね。彼らがどういう方向に行きたいのか、それを一番実現できるようにサポートして世に出す。それに反応が返ってくることによって、その子がどう感じるか、そしてリフレクションする。その積み重ね。教育として一番大事なんじゃないかと。」
(宇川)「さすがマルチネ。マルチネの成り立ちも肯定からはじまっていますよね。ネットレーベルがまだ珍しかった時代に、まだ得体のしれない表現者たちを一つの概念に押し込むことなく、奔放な活動自体をパッケージングしていた。ジャンルから解放されていたコレクティブだったからこそ、パッケージングしづらかったと思うけど、マルチネはそれに成功したんだと思うんです。だから今言った教育理念に近づいていくんだろうなって理解できますね。」
(武田)「共通しているのは、伊東豊雄先生がやっている伊東建築塾もそうなんですが、ものを作って、世の中から反応が返ってくるっていうこと。そして、子供が自由に発想するものを形にしていくこと。GAKUとしての明確なコンセプトとしてそういうった意識があります。僕たちは子供たちが思いつくことを形にして、世の中に発表する場所を作って、そこから返ってくるものをまたリフレクションする。これがGAKUの一つの特徴かなと思っています。どうでしょう?熊井さん。」
(熊井)「うん。本当にそうで。偶然性みたいな話って、義務教育の現場が一番苦手なやつなんですよ。」
(宇川)「だって教科書がありますからね(笑)。」
(熊井)「「指導計画」っていう「計画」がある。指導計画からあぶれちゃうと、その子たちはエラーになっちゃう。つまり「これでいいのだ」と言えない状況。ジャッジメントしていく。まさにGAKUも「これでいいのだ」精神でそういう偶然性、つまりは子供それぞれを受け入れること。それはポストパンデミックであろうがビフォーパンデミックであろうがとても大切にしたい。やっぱり何かを作る時って絶対偶然性が入ってくるじゃないですか。実物大で作ってみたら超使いずらそうとか。そういう照らし合わせなので、そこらへんがシンクロするなと思って伺っていました。」
(宇川)「いつも言うのは、『8時だよ!全員集合』の記憶に残ったコントは?って言うアンケートの一位が停電で、二位がボヤ騒ぎだったという衝撃の事実です。それってコントじゃないじゃんって(笑)!事故ですよ(笑)。すでに事故がコントを超えてるんですよ。『天才バカボン』もそうで、予定調和がないのです。記憶に残る事柄を形成する構造に予定調和がないって言うことは結構重要。予定調和ならば受け取った段階で消費されてしまう。でもずっと残っているということは、そこに意図した誘導がないからだと思うんです。だからこそ今でも記憶に残っている。これって消費されずに歴史を超えてずっとフレッシュでい続けている言うこと。」

 

クリエイターゲスト:宇川直宏
聞き手:武田悠太、佐藤海(GAKU事務局)
MC:熊井晃史(GAKU事務局)
収録日:3月22日(月)*感染拡大防止対策を徹底した上で収録しました。
ジングル:newtone by Mecanika [MARU-169]

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